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 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
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1・22

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月22日(火)18時28分23秒
返信・引用
  ピーターの子育て(授乳)  
 

1.21

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月21日(月)18時50分32秒
返信・引用
   

1.20

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月20日(日)18時31分29秒
返信・引用
   

1.19

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月19日(土)18時40分1秒
返信・引用
   

1.18

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月18日(金)18時41分53秒
返信・引用
   

1.17

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月17日(木)18時56分21秒
返信・引用
  こころに 或いは人として重い事が2件ありました。
動くことも儘ならない私は 採るべき道も採れませんでした。

今日は猫の写真は 遠慮させていただきます。
それが 何かの言い訳にも また何かの代わりにもなりませんけれど。
 

(無題)

 投稿者:はるみ  投稿日:2013年 1月17日(木)11時30分6秒
返信・引用
  紫紋さんの人生がどのように展開されて行くのか、
静かに見守っています。
続きを楽しみにしています。
ご無理のない範囲で継続されて下さい。

http://blue.ap.teacup.com/hamiel/5.html

 

1.16

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月16日(水)18時51分18秒
返信・引用
   

1.15

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月15日(火)18時58分54秒
返信・引用
  何か ホッとしています。  

人生劇場

 投稿者:紫  紋  投稿日:2013年 1月15日(火)12時16分32秒
返信・引用
   お馬鹿な男の人生劇場 ⅩⅨ

この章では、私とA子の生活のついて述べておこうと思います。
総括すれば、私にはA子との生活、そして来る破局について100%の責任が一方的
に在り、A子には全く落ち度のないことでした。今こうして振り返る場合、私には反
省と悔悟の念はあります。 召されて神様の裁きを受ける時、きっと許されない事を
犯してしまったと思っています。
ですから振り返って考えたくない部分もあります。

五反田の四畳半のアパートには合計6年住みましたが、そこからあまり離れていない、
上大崎中丸と云う所の 2DKのマンションをローンで買いました。
私が26才でしたから、当時としては若者が自力で不動産を取得するのには早い方だ
ったと思います。
A子は3竿あった自分の箪笥をやうやく私の所へ持ち込むことができ、殆ど川崎に置
いてあった自分の荷物なども持ってきました。三味線5丁、大太鼓小太鼓、踊用の蛇
の目傘数本、など。私の本棚は空けてA子の長唄小唄清元などの本を入れなければな
りませんでした。
A子の生活の主体が、川崎から私との生活に移行したということでした。
お蔭で私のものは、事務机一つ置くスペースがありませんでした。

私の年収は7・8拾万円くらいで同期の、上場企業等へ勤めた者の2倍はありま
した。一般的には課長か次長職くらいの収入でしたが、銀行は 定職定収入者と
は認めてくれずローンは組めませんでした。(今ならそんなことはありません)
それでマンションの名義はA子のものとしました。

マンションの価格は300万円くらいだったと思います。A子にはそれ以上の銀
行預金がありましたから、A子名義だったら何の問題もなかったのです。
専有面積が16坪くらいの2DKでしたから、A子の荷物が入って私たちのベッ
ドを置くと、お客様をお泊めするスペースはありませんでした。

私の収入だけでも、ローンを返済し生活費をまかなって行くことが出来ました。
A子と川崎の義母は、即金で支払って私名義にするように勧めてくれましたが当
時から、不動産等の占有欲は私には全くなく、女房名義の家に住んでいては主人
の沽券に係わるというような考えは、私にはありませんでした。
義母にはもう一つの思惑、それは自分が泊まるスペースのないことが大いに不服
でした。しかし26才の青年には、身分不相応な大きな家に住む事には抵抗があ
りました。 例え妻の名義であったも、月々のローン返済額は、自分で支払いの
できる範囲でないと納得できませんでした。

苗字さえ妻の苗字にしている事を、私の母や兄弟姉妹は、大問題だと考えていた
ようです。
「小糠3合あったら婿に行くな。」と云う言葉があることは知っていましたし、
母から考えたら、長男が芸者置屋の婿になるという事は、耐えがたい屈辱であっ
たのでしょう。

少し当時の仕事のことを書いておきます。
私にとって事務所の所長(弁護士事務所の主任弁護士)、派遣先の会社の上司、
それらの人々は怖い存在ではありませんでした。 例えば派遣先から事務所の所
長に担当者(私の事)を変えてくれるように依頼があったとしても、はたまた事
務所から首を言い渡されたとしても、私は少しも困らなかったからです。
そういう状況になったら、A子に「僕は小説を書きたいから、明日からそうする。」
と、A子に云えばよかったのです」A子はこう云ったでしょう。
「嬉しい、あなたは明日からずっと家にいてくださるのね。」
と云ってくれる事が解っていました。クレーム処理係としては、こんなに楽な立
場で仕事に当たれる者はいませんでした。
非合法で自分が逮捕されてしまうようなことだけに注意していればよかったのです。
ですから私は思い切った仕事が出来たのです。

それに関連して結局50才までその関連団体・会社に勤めたのですが、当時20代
の時には、そんなに長く勤める気など、さらさらありませんでした。

その頃にはA子は、五反田カサブランカとの契約が終了して、新しくできた赤坂の
「ミカド」へ務めていました。 ミカドは高級店でしたから、カサブランカの時の
ように沢山の指名を取ることなどの必要は無かったと思います。
ミカドは、パリの「ムーランルージュ」を意識した店でした。
A子の母親は川崎での仕事を引退し、神楽坂へ移り住み、A子名義の置屋株と芸妓
株を神楽坂の検番から手に入れていました。

私は カサブランカにもミカドにもA子が在職中は、一度も行ったことはありません。
妻に水商売をさせる者の 基本的なルールだと思っています。

ミカドは赤坂という土地から外人客も少なくありませんでした。しかし客筋は五反
田と比べたら数段上でした。 A子は「神楽坂のゲイシャ」として店に出ていたの
です。 当然ショータイムには長唄や小唄を踊っていました。
A子は花柳寿助の直系の弟子でしたから、師匠が歌舞伎座や演舞場で興行する時に
は、バックダンサーをしていました。お金にはならなかったでしょうけれど。
むしろ持ち出しのときだって有ったのかもしれません。
そんな事には一切の関心を持たない私は、A子には都合の良い配偶者だったのです。

私たちは同棲時代も含めて17年間一度も喧嘩をしたことが無かったと云うと、他
人は「多分それは、あんまり密着度が無かったからではないか?」と云います。或
いは、「本当の愛情で結ばれてはいなかったんでは?」とも言います。

喧嘩にはならなかったのです。
二つくらい年上だからと、亭主を「いなしている。」と思って喧嘩の種を幾つも幾
つも仕掛けたりしたこともあります。
例えばキッチンが汚れているとか、雨の日の翌日昨日濡れたままの靴がそのまま出
ているとか、二人の仕事から考えたら殆ど言いがかりのようなことで、つっか掛か
ったこともあります。

そんな時 A子は「ごめんなさい。キッチンは食べるものを作るところだから綺麗
にしてなかったら、気持ちが悪いですよね。今日からもうきれいにするから。許して。」 濡れた靴が出しっ放しなっていた場合は(それは本来私の仕事で、夜中の2時頃仕
事から帰ってきて朝8時には私を送り出すA子には、無理な事。) 「ごめんなさ
い。本当にごめんなさい。今日履いて行ける靴を出しておかなかったのは、私の怠
慢。これからは気を付けるから許して。」
こんな具合ですから、喧嘩にはならないのです。

ウイークデーではA子の帰宅は深夜1時―3時です。私は眠っていて起きることは
ほとんどありません。 私は7時に起き7時半には食事をし8時には出勤します。
A子は6時半には起きて私の食事を作り、私を送り出してから、8時からお昼まで
は二度寝をするのです。
2時頃A子が帰宅して 眠っている私を ハグしたことがあります。「ゴメンね。
明日は会議でプレゼンをしなくちゃぁいけないんだ。眠らせてね。」と云いつつ
夫婦の営みに入っていったこともありました。
ただ私は、女房の帰りを必ず寝ないで待つ「髪結い亭主」にはなりたくなかったの
です。
私たちの「夫婦の営み」は、朝6時頃を中心にA子が起きだす前に愛し合うのが通
例でした。

性に関しては、私達には 不文律 があって、どんな場合でも求められたらお互いに 必ず応じるという決まりでした。
欲求不満のようなものは、次の行動に引きずりたくなかったのです。

義母の座右の銘は「美しや 叱られ振りの 良い女」というもので、A子は3才
からそういう教育で育ちましたから、主人に注意されたことに「口答えで応ずる」
というのは、彼女の人生マニュアルには無かったのです。

こんな訳で 私達は夫婦喧嘩をしたことが無かったのです。
それが あまり仲の良くない夫婦の証明とも思いたくないのです。

二人の収入は、余裕がありましたから、川崎には10万円か20万円。 静岡の
母には 数万円ずつ毎月仕送りをしていました。

********************************

A子は 本当の所 私を愛していたのでしょうか?
心理学書に、こんなことが書かれています。

別れた後で、別れた人の 持ち物等を大事にしているようだったら、その人は解れ
た人を愛していた。女性は嫌になって別れた男性の持ち物など たとえ高価な者で
も傍に置きたくないから捨ててしまう。

その学説が正しかったなら、A子はわたしを愛してくれていました。
私の和服類、クリフサイドなど行くとき来ていったタキシード、17年間の写真、
何枚かのYシャツ、カーディガン、ジャケット、パジャマなどは別れた時 私には
渡して呉れませんでした。

「これから 貴方のYシャツを着て寝る。」とA子が云った時、
「自分は地獄への道を選んだんだ!」と思いました。
 

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